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ビー球 ●
はるなが小学三年生になった春、はるなのおばあちゃんは、はるなにある重大な任務を 任せました。 「ええかはるな。はるなはもう立派なお姉ちゃんや。だからはるなに、おばあちゃんの店 を手伝って欲しいんや。」 はるながこれを聞いたとき、あぁ、それはどんなに喜んだことでしょう。はるなはその 小さな目を、これ以上ないくらいに大きく見開いて、おばあちゃんに夢中で聞きました。 「ほんま?ほんまに?ほんまにおばあちゃんのお店を、はるな手伝うの?」 おばあちゃんは、小さな文房具屋さんでした。学校の門まで続く大きな道に面したその お店は、小学生たちの強い味方でした。おばあちゃんはみんなが登校する時間になると店 を開け、掃除をします。そしてみんなに挨拶をしたり、話しかけたりして、ほくほくと笑 います。学校で消しゴムをなくしたりなんかすると、決まってみんな学校帰りにこのお店 に寄っていくのです。おばあちゃんはおまけしてくれたり、シールをくれたりします。 「そうやで。はるなは、お店のドアの横っちょの、ビー球売り場の売り子さんになっても らうのよ。お店入ってきた人に挨拶して、うちの看板娘やねぇ。」 はるなはいよいよ目を輝かせました。鈴のなるドアを押すと、左の方は少し段が上がっ て棚がいくつも並んでいます。手前の方の棚には、おはじきやお手玉や、めんこや粘土、 へらとか、習字道具なんかも置いてあります。奥の方にはノートや筆箱や、消しゴムなん かが売ってあります。色んな形の小さな消しゴムは、女の子に大人気でした。ハートやお 星様の形はもちろん、イチゴやバナナなどの匂いのする消しゴムもあるし、桜や梅なんか のお花は、ちょっと遠くから見ると本物のようにかわいらしかったのです。右側の壁には ペンや鉛筆がそれはそれはたくさん並んでいます。そして名前ペンの横に、おばあちゃん の座っているレジがあります。ちょうど消しゴム売り場のお向かいさんです。ほとんどの ものはここでお会計をします。 そしてこのお店の名物、それは、よく海賊なんかが船に積んでいるような樽に入ったビ ー球でした。赤や青や緑、黄色などの、七色のビー球と、透明でまっさらなビー球が、そ れぞれ樽いっぱいに入っているのです。虹色のビー球は、七色の宝物のようにずっしりと 重たく、木の樽がきしんでしまうほど。透明なビー球だって、真珠のようです。海に沈む 海賊船の宝物だって顔負けに違いありません。大きいのや小さいの、数の少ない色のもの なんかは、綺麗なガラスの深皿に入れられていました。こんなビー球は、棚に並べたりし たらもったいなくてありません。だからおばあちゃんは、通りに面した大きなショウウィ ンドウに、深皿に入れたビー球を並べました。外から見ると、冬なんか、寒い空気の中、 ガラスについた水滴の向こうのビー球は、朝日にきらめいてなんともきれいなのです。 そんな素晴らしいビー球売り場が、小学校三年生のはるなにすっかり任せられたのです。
「いいね、樽に入ったのは、十個で百円。つまり一個十円。こんな風にお皿に入ってんの は、一個が十五円。でも十個買ったら、百二十円におまけ。分かったな?お金は、このお 皿に入れること。それで、えーと、おつりは間違えたあかんよ。あとは何かあったかいな?」 おばあちゃんは、てきぱきとはるなに命令します。今まで一人きりだったおばあちゃん は、今やすっかり新入りはるなの店長さんです。 「分かってるって。はるなに任しとき。」 はるなは何だかくすぐったい気持ちで、赤いエプロンをきゅっと締めなおしました。は るなは三年生一学期の始業式の後、すぐにお母さんに買ってもらったこのエプロンを握っ て、おばあちゃんの店に走ってきたのです。はるなのおうちからおばあちゃんの店までは 、ほんの五分程度で行けました。 「気合入ってるなぁ、はるな。ここはもうはるなの売り場やから、はるなの好きなように 飾ってええんよ。暇になったら、家から漫画でも持っておいで。宿題のある日は、ちゃん と宿題するんよ。それから、六時になったらうちに帰ること。夏になったら、もうちょっ とおってもらおうか。遊びたかったら、無理せんと遊びにいきな。」 「もう分かったっておばあちゃん。あたしに任せとき。」 はるなは自信満々に答えました。おばあちゃんはまだ少し心配そうでしたが、はるなが ちゃっかり七色ビー球の樽の向こうに収まると、いつものようにまた、ほくほくと笑って レジに戻っていきました。おばあちゃんの背中がおはじきの棚にすっかり隠れてしまいま す。いよいよ、はるなはビー球売り場の売り子さんになったのでした。 はるなはおばあちゃんの姿がみえなくなると、急に緊張してきました。たくさんのビー 球に囲まれたまま、どうしていいかわからなくなってしまいました。お店がこんなにしん としているなんて思ってもみなかったのです。おばあちゃんが店の奥にいるはずなのに、 はるなには見えません。なんだかこの世界に自分一人ぼっちのようです。目の前には樽い っぱいの虹。右手には春の日にすけるガラス皿。何だか自分のまわりばかりが輝いて、神 様にでもなった気分でした。でもはるなには自分が神様だ何て思えません。耳の奥でビー 球がかちかちと気の弱いはるなをせせら笑っているような音がします。算数の時間に、間 違った答えを言ってしまったときのように、はるなは綺麗なビー球から目をそむけて、自 分の手ばかりを見つめていました。少しして、それは自分の心臓が、真っ赤な血液をどく どくと流している音だと気づきました。 だれかお客さん来ないかな・・。そう思いながら、はるなは手提げかばんにいれてきた 厚紙とペンで、値札を作り始めました。青いビー球、一個十円。十個で百円。数字のまわ りを青い星で囲ったりもしました。まるで今のはるなのように。はるなは七色のビー球の 値段を、色とりどりのお星様ですっかり囲んでしまいました。 そんなことをしていると、ふいに窓の外で元気な声が聞こえました。それがクラスのえみちゃんと日高さんの声だったので、はるなは急に嬉しくなりました。 「そうなんだよ。ものすごくかわいい色でね。あれと同じ物を買うの。」 二人は楽しそうに笑いながら、お店のドアを開けました。ちりちりん、と鈴が静かになっ て、暖かな春の風がふわりと店の中に入ってきました。 はるなは いらっしゃいませ と叫びたかったのですが、何だかまた急に心臓がどきど きしてしまって、声を出すことができませんでした。えみちゃんと日高さんははるなに気付かないまま、お店の奥に入っていってしまいました。遠くの方で、おばあちゃんの小さ な「いらっしゃい」が聞こえました。お店の中に、えみちゃんと日高さんの声が明るく響 きます。 えみちゃんたちはお買い物が終わったらしく、小さな紙袋を下げてまたはるなの前を通 り過ぎようとしました。はるなは二人の笑い声に負けないように、喉から声を絞り出しま した。
「ありがとうございました」 あんなに楽しみにしていたおばあちゃんの店の手伝い。はるながお客さんに、大きな声 で挨拶をする。そして、看板娘のはるなに、クラスや学校のみんなが驚きの目を向ける。 そんなことを想像してにんまりしていたはるななのに、いざとなると何だか恥ずかしく なって、もにょもにょとしか言えませんでした。何だか春にそぐわず顔があつくなって、 聞こえなかったらいい、と思いました。
「あれぇはるなやん!」
耳のよいえみちゃんは、小さいはるなの声に気付いたようです。はるなは少し身を小さ くして、答えました。 「ビー球いらへん?今、おばあちゃんのお手伝いしてんの。」 えみちゃんはへぇっ、と目を丸くしてはるなのそばにやってきました。 「はるなえらいなぁ。でもこのビー球ってさ」 えみちゃんは日高さんと一緒に樽の中から透明なビー球を手づかみで取って、ばらばら と戻しました。ビー球はえみちゃんの手の中で、かちかちと音を立てました。 「なんか面白くないよな。図工室にあるのでもさ、中になんやうねっとした緑と赤のもん 入ってるやん?猫の目みたいな。これとか透明だけやし。他の何かないの?」 はるなは黙ってしまいました。確かにおばあちゃんの店のビー球は、色が一色だけのも のばかりで、中に模様がありません。これはこれで綺麗だとは思ったのですが・・。 「・・でもこのピンクは綺麗やろ?ほら。なんか桜の色に似とう。」 「えー。でもいらんよ。そんなん家のいっぱいあるもん。なんか中に入ってて綺麗なやつ やったら買うけどなぁ。じゃぁバイバイはるな」 「そうやんね。ばいばい。」 えみちゃんと日高さんはその後も楽しそうにおしゃべりをしながら、お店を出て行って しまいました。春の風がもう一度入ってきて、最後に残ったのは鈴の音だけでした。 はるなは恥ずかしさとどうしようもないほっぺの熱さが少し消えて、逆に少しさみしく なりました。お店はまた、静かになりました。えみちゃんたちは遊んでいるのに、自分は お店のお手伝いです。もちろんあんなに喜んでいたことだから、えみちゃんたちがうらや ましいなんて思ったわけじゃありません。でもさっきの言い方だと、まるで自分が無理や りお手伝いさせられているみたいです。なんだか自分が ええかっこしぃ のように思え てきました。えみちゃんの、えらいなぁ の言葉が頭の中にひびいています。他にお客さ んは来そうにありませんし、それに、みんな一色だけのビー球なんて欲しがらないのです。 はるなは陽射しにきらきらする赤や青や黄色のビー球を見て、ちっとも綺麗とは思えな くなりました。とくにこの透明のやつと来たら!はるながお客さんでも、こんなにつまら ない物は欲しくなりません。
「・・・もうやめよっかな・・・」 おばあちゃんに聞こえているようで、はるなはすこしびくびくしました。こんなことで やめたりしたらあかんとわかっていても、声に出てしまいました。さっきのいらっしゃい ませの声よりも、よく聞こえました。でもおばあちゃんには聞こえていないようなので、 はるなは今度は小声で歌を歌ってみました。それでもお店はしんとしています。どうして 今日に限ってこんなにお客さんが少ないのだろう。はるながおばあちゃんにこの仕事を頼 まれたときは、新学期の前でたくさんの小学生が鉛筆を買いに来ていました。あんなにに ぎやかだったお店も、こうしてみるとちっぽけです。 はるなは透明なビー球を春の日に透かしてみます。ショウウィンドウを一つはさめば、 にぎやかな通学路です。ときおり渡る車の音さえ、軽やかに響く桜並木。通学路の向こう がわには、桜がひらひら舞っています。
「桜色のビー球じゃなくて、このビー球の中に桜の花びらでも入っていたらなぁ。」
はるなは呟きました。そしたら、えみちゃんでも一個ぐらい買ってくれるかもしれませ ん。桜の花びらの入っているビー球なんて、素敵に違いありません!どのお店にだって、 桜の花びらの入ったビー球なんてきっと売ってないでしょう。はるなは透明なビー球を通 して、桜の木を眺めてみました。考えるだけでわくわくするようなビー球。はるなは少し 嬉しくなって、しばらくの間手の中で透明なビー球を転がしては望遠鏡のようにのぞいて みました。真珠と虹の宝を見つけた海賊はるなは、次なる秘宝、桜のビー球を求めていま す。春の日差しは暖かで、白いほこりが雪のように舞いました。 窓の外を眺めていたはるなのほっぺに、春の風がふいっとあたりました。お客さんでも 来たのかなと思い、はるなは急いでイスに座りなおしました。明るいショウウィンドウの 外ばかり見ていたので、お店の中がよく見えません。すると、いつのまにかはるなよりも 少し年上のような、ピンクの制服に身を包んだ女の子が、はるなを見下ろすようにして立 っていました。 |