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○○●

 

   ―せいじつ―

 

一年に一度だけ、街は静かになる。ちょうど夏休みの終わりごろの満月の日。静日に。

 

 しゃんしゃんとか弱い風鈴の音が、ざわめきの中に溶け込んでいる教室。しかし カシャン と一声、鈴華の風鈴が泣いたとき、一瞬にして教室はしんとなった。
「あ・・・」
 床に転がっているのは割れた風鈴と、そして東。硬直したように立っている鈴華の横で、音子が大きな声をあげた。
「何すんのよ東! それ・・っ」
 音子が言葉を続ける前に、鈴華はすっと手を出した。他の生徒の視線は全てそこに注がれている。教室の風鈴が狂ったようにしゃんしゃんとなった。
「大丈夫?」
 鈴華から出た言葉は、自分でも驚くほどやさしかった。


「・・大丈夫」
 出された手にあまり体重をかけないように立ち上がって、東は割れた風鈴を見た。走っていると、不意に立ち上がった鈴華にぶつかってしまい、鈴華の手から風鈴が悲しい音を立てて落ちてしまったのだ。あっという間だった。
「・え・・・と・」
 東が何かを言おうとしたその時、後ろからもう一人の男子が声をかけた。
「一馬! お前何やってんだよ! ほれチリトリっ、星塚も珠木も触んなよ」
「健・・・わり」
 言われるがままにチリトリとほうきを持ってガラスの破片を集めにかかる。それを見て、一時大人しくしていた音子がまた声を荒げた。
「っとにこのばか東西! 教室で追いかけっこなんかしてんじゃないわよ! それ鈴華 誕生日に買ってもらったばっかだったのにっ」
「音子・・」
「ご、ごめん星塚さん・・」
 西岡が慌てて駆け戻ってきて、鈴華に頭を下げた。
「鈴華すっごく気に入ってたのにっ。あたし見せてもらう約束でまだちゃんと見てないのに〜っ」
「ちょっとお前違うだろ」
 健がほうきを片手に音子につっこんだ。音子はそんな健につっかかる。
「あんたたちちゃんと先生が来る前に片付けなさいよっ。わかってんのばか西っ」
「わ、分かってますほんとごめんって・・・」
 教室にまたいつものようなざわめきが戻り始めて、鈴華は少しほっとした。ふと東と目が合う。
「・・ごめん・・・」
 珍しく・・、少し、楽しみにしてた登校日だったんだけど・・。
「・・・・いいよ」
 東が割れた風鈴の飾りから出てきた小さな鈴を、鈴華の手に差し出した。チリン、と小さく音がなる。
「ありがと」
 東は振り返らず、風鈴の破片を持って背を向けた。ちょうどその時、誰かが先生の来訪を告げ、皆が各自ちりぢりとなった。
 鈴華も、大人しくすぐ横の席に着いた。机の角に一度あたってから落ちてしまったから、どんな言い訳もできない。お母さんに、なんて言おう・・。そんなことを考えながら、登校日の午前は終わった。

「どうして鈴華にはあんなことが言えるわけーっ?」
 チリンチリン。からんからん。音子が大きな声で言った。風鈴の音が激しくなる通りに、しっかりと響く声。久しぶりの帰り道。
「別に音子に何も迷惑なんかかけてないじゃん」
「でも不思議でしょーがないのーっ」
 音子が道いっぱいに両手を広げて、空に向かって叫んだ。夏休みの空、熱い水蒸気のような風が、風鈴を音子のように両手いっぱい鳴らしていく。
「うるさい・・」
「鈴華はむかつかなかったの?」
「そりゃむかついたよ。でもしょうがないじゃん。」
「あたし思うんだけどさっ」
 音子が私の目を見上げた。音子はクラスでも結構前の方にいる。
「なんで鈴華思ったこと言わないでいられるの?」
 前髪が巻きあがって、街が騒がしくなった。なんで。なんでって言われても。遠くでなる小さな風鈴の音が気になる。チリンチリン。カランカラン。鈴華は思った。言ったって・・・。言ったって、どうにもならないことのほうが多いから。
「・・ことなんかいい例じゃん」
 あそこで、東に怒ったからってどうなったんだろう。割れた風鈴はもとに戻らないし、東だって気を悪くしただけじゃない。
「え? なんて?」
「何にも。」
 しゃんしゃん。教室の風鈴にどこか似た音が聞こえてくる。それに、言いたいこと言わないほうが、いいことも知っている。言いたいこと言うと・・・。シャンシャンシャンシャン。
「はぁあ。私も鈴華みたいにやさしい子になりたいよ〜」
言うたびに、誰かが、誰かが傷ついてしまうような気がして。
「私は音子のことがうらやましく思うけど」
「またそういうことを言う〜」
 素直な音子がうらやましい。どこかで、音子のような子にあこがれて、それでいて、音子がいるからこそ得られる私の立場に安心もしている。こんな私がやさしい子だなんて。みんながみんな、風鈴の音に酔っている気がした。坂道の多い街から、ざわめきのような鈴の音がむくむくと立ち上っている。

「あ・・・」
 夕方になって、涼しくなった。手すりの向こうから聞こえてくる風鈴の音が身体の温度を下げていく。でも今日は下がるに下がりきれない。一番近い風鈴から音がしないから。
「・・・手提げ忘れた・・・」
 そう短くつぶやいて、はぁとため息が一つ漏れた。せっかくお母さんへの言い訳が上手くいったのに。窓から金具と一緒に落ちてしまった風鈴は、明日にでも買いに行くことになった。いいことが一つあると、必ず訪れる悪いこと。でもこれくらいなら、まだいいかもしれない。明日、もう一度教室にあがるだけだった。宿題の答えが入った手提げ袋が、割れた風鈴をしのぶようにそこに下がっているはず。
かりん、かりん・・。斜め下に見える窓から、いつものような音が聞こえてくる。ちょうどマンションの谷間にあたる二つ分お隣の風鈴、この間糸が切れてしまったみたいだけれど、いつのまにか元気に風に身を預けて、いつか空を飛ぶ夢を見ながらブランコをこいでいる。

もう夏休みも下り坂にさしかかって、部活動の活気も少し衰えたみたいだった。先生に事情を話して教室の鍵をお願いすると、どうも学習会の関係で教室が変更になり、部活の更衣に使われているらしい。
「女子ですか?」
「いや、野球部だから男子だよ。入るとき確認してな。」
 顔も上げずに、先生はたんたんと言った。冷房の効きすぎた職員室では、風鈴だけがやさしい音を出している。
「わかりました」
 こっち、向いてくれたっていいじゃん。
 教室までの階段が長かった。男子とか女子とか、そうじゃなくて、教室で東に顔をあわせるのは少しはばかられたから。
 でも実際教室の廊下まで来てみると、教室からはほとんど声がしなかった。どうやら大分更衣も終わり、みなジュースでも買いに急ぎ帰ったようだ。昼の盛りに向かい、開け放たれた窓から光がまぶしい。少し安心して取っ手に手を伸ばす。
「・・・でもお前本当昨日は見事にぶつかったな・・」
「うるせーよ。」
 どきんと一瞬心臓が高鳴った。教室に残っているの、声からすると、よく東と一緒にいる野球部の三人組のようだった。
「でも一馬、よかったじゃんぶつかったのが星塚で。これが珠木とかだったらどうするよ?お前昨日は帰してもらってねぇぞ」
 そりゃそーだ、笑い声に続いて、東の弁解の声が聞こえる。取ってに手をかけたところで、鈴華も少し微笑んだ。確かに、音子の風鈴なんか割ったら、それこそ学校中を前に謝らなくてはいけなかったかもしれない。
「まさかお前 わざとぶつかったんじゃねーの、やるなぁ」
「そんなことないって」
「でも星塚もやさしいよな、大丈夫? だって。」
 冷やかし混じりの言葉に、東がもつれこんでいくのがわかる。全員同じ学年の男子というのは都合がいいけど、まさか自分の話をされているところにそうそう堂々と入っていけない。教室の風鈴がしゃんしゃんとか細い音を立てた。ドア一枚はさんだだけだと、こんなにもはっきりと色々なことが聞こえるんだ。
「もう一回ちゃんと謝れよ一馬」
「っるせ。んなことわかってる・・けど・・だいたいさぁ」
 少し不機嫌な声で東が続けた。カチン、と教室の風鈴が乱れた音がした。
「あんなもの、あいつの言う通り持ってくるほうが悪くね?」


 誰に何の発言も許さず、がらりとドアが開いて、一気に風の道ができた教室に強い風が巻き起こった。針金で引っかいたような甲高い音で、教室の風鈴が暴れる。相手は九つもの目を持っているのに、鈴華の目は一瞬にして東のそれとかち合った。
「星塚・・」
 東の右手にいた健が、後ろの席に陣取っている西岡と目配せをした。東の目が泳ぐ。
「・・・あの・・」
「―――― っごめん。いたんだ。びっくりした?」
 鈴華は片方の口だけを上げると、三人に向かって両手を合わせた。
「忘れ物」
 鈴華は東の座っていた机の横を指差した。手提げカバンが昨日のまま。
「・・・・・・はい」
「ありがと」
 お互い伸ばした指先に布の取っ手を絡ませて、東と鈴華のやり取りは終わった。
「部活?」
「・・うん・・。でももう終わったよ」
「そっか。じゃぁまた今度ね」
「じゃぁな」
 健と会話を交えて、そのまま教室を出た。ドアを閉めた後、一度も振り向かずに校門まで早足で歩いた。汗ばんだ手のせいで、階段の手すりにひっかかり、もうすぐでこけてしまうところだった。

 今日は風が強い。風鈴の音にかき消された足音、エプロン姿の男の人が、急に鈴華の横を通った。一瞬だけだけど、見られた気がした。口の形だけでなんて言ったか分かったかな? 少し恥ずかしくなってうつむいて歩く。それとも聞こえた? まさかね。この街で。ここは風鈴の街、一年中、風鈴が鳴り響く街。たった一日をのぞいて。風鈴が狂ったように鳴っていた。さ い て い と。

 そのうち夏休みが終わって、まだ夢見ごこちのまま始業式の日も過ぎた。音子との間にも割れた風鈴のことはワダイに上らなかった。その日、鈴華は毎年やってきたように、そして街のみんながやるように。まだ新しい風鈴を外して、机の上に横たえた。明日は一年に一度、風鈴を休ませる日。一年に一度、街が静かになる日。静日。

 そしてその日になった。起きるのが嫌につらい朝。なんだか転校生のような気分で向かう教室も、6時間という日常が過ぎた後にはすっかり数日前のとおりだった。音子と話をしたり、先生の連絡事項を聞いているときに、ちらりと視線を東に向けてみた。教室の、廊下から三番目、前からも三番目、私の、左斜め前。鈴華は折れたシャーペンの芯を無造作に転がしてみた。べつに、べつに、期待してたわけじゃない。東の方に視線をやっても、少しも気にしているような感じはしない。黒ぶちの目がねをかけて、友達と宿題の話に盛り上がっている。めがねかけたところ、はじめて見た。夏休みの間に作ったのかな。学校が終わった。音子も、みんなも部活。私は家に帰るだけ。


 音子と別れてから、静かに街に下りた。昨日も歩いた通学路。学校のざわめきの中じゃ分からなかったけれど、風鈴の音がしない道は、嫌に静かで、まるで自分ひとりだけがこの世界を歩いているみたいだった。開け放たれた小さな窓が並んでいても、その中から宇宙人でも出てきそうな気配だった。入道雲は今日も静かに立ち上っている。毎年のことだけれど。
その時ふと耳に何かが聞こえた。たったったっ。後ろから、誰かが走ってくる。足音がどんどん近づいてくる。色々な人がいろいろな理由で走っている。自分には関係のないはずなんだけれど、ずいぶんと長いこと足音が聞こえる。タッタッタッタッタ。少し気になって、鈴華は振り返ってみた。不意に気付く、直線の続く通学路。夏の残り日の中に、黒い人影がこちらに向かって走っていた。

・・・・・東?

鈴華はびっくりしてそのまま立ち止まった。立ち止まって、走ってくる東を見ていた。東の家、こっちの方だったかな? 自分に関係あるのか、それともないのか、どっちつかずの雰囲気の中、鈴華はうつむいて足元の影を見ていた。足音がどんどん近づいてくる、もう荒い呼吸まで聞こえる。通り過ぎて。通り過ぎて? しかしざっ、という音と共に、その足音は止まった。
「・・・・えと・・」
 鈴華がなすこともなく顔を上げると、東が目をそらす。心臓が高鳴るのを感じた。きゅ、と手を軽く握り締める。風が吹く。
「・・あの・・・・・お前・・・もうちょっと素直になれば?」
「っ・・へっ?」
 ざあっと風が木々の音でなって、二人の間に空間をつくった。
「言いたいこと・・それだけだから・・じゃっ」
 押し付けるように何かを鈴華の手に握らせて、東は行ってしまった。再び足音が遠ざかっていく。
「え・・っあ・・」
少し小さめの直方体。渡された時に音がした。そっちこそ・・
「これ・・・」
 もう声も東に届くはずもなく、鈴華は遠ざかっていく背中を見ながら箱を複雑な気持ちで握り締めた。そっちこそ、素直に謝ればいいじゃん。
「・・・・いいのに・・・・」
 箱を開くと、チリンと小さく鈴が鳴った。金魚ばちを逆さにしたような風鈴で、星の形をした飾りが三つと、淡い青の短冊がついている。小さいけど、かわいらしかった。箱から出してみると、さっそく静かな街の風に吹かれて、短冊が葉のすきまの青空のように揺れる。くるくると回る短冊に、何かが書かれていた。


チリンチリン・・・チリン・・チリン・・・


 後ろから急に自転車のベルが聞こえて、鈴華の横をしゃっと通り過ぎた。鈴華は慌てて脇によけると、風鈴を胸に押さえつけた。風鈴は鳴り止んだけれども、それでも鳴り止まない 何か を隠したくて。


今日は街が静かだな・・・・。 


 後ろを振り向けば、遠くに東が歩いているのが見える。急ぐ必要がないのか、それとも・・? 

・・もうちょっと、素直になれば?
 
東の言葉が頭に変にゆっくり響く。今日は街が静かで、そう、こんな日は・・
「東!」
 きっと普通の日なら聞こえない、でも今日なら聞こえる。小さな東は立ち止まった。鈴華は少し、喉が渇いたように感じた。今、冷たい麦茶が飲めるなら、もう何もいらない。でも今飲んでしまうと、きっと私は黙ってしまう。
「・・・呼ばれたんだからこっち向いてよ」
 東が振り返ったのか、よく分からなかったけれど。素直になれって言われて、そっちが素直になってくれたなら。あたしも、少し、少しだけ、素直にならなきゃいけないかなって思う。


「ありがと」


 風鈴が再び自由になって、鈴華の手の中でチリンチリンと軽やかに音を立てた。短冊が揺れて、素直な走り書きの一言が、星のきらめく青空の中に飛んだ。くすぐったい笑顔を浮かべて、鈴華は急に恥ずかしくなる。

好きだって。

「――っ、消しとけよちゃんと」
 三度東が駆け出して、あっという間に角に入り見えなくなった。部活のランニング、そろそろはじまっちゃったんじゃないかな? 鉛筆の走り書きのラブレター、本当は見ているだけで恥ずかしいけど、消すのはちょっともったいない気もする。


一年に一度だけ、街は静かになる。夏休みの終わりごろの満月、そう、今日。静日に。こんな日は、こんな日は、心臓の音まで、聞こえてしまいそう・・・・。

 

 

 

 

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