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湖畔の白 


鳥 

 

私たちは白鳥だった。

 

「野外舞台はどうなっているのですか」
「先ほど視察に行ってきましたが、もうじき完成かと」
「雨のせいでずいぶんと無駄な手間がかかったからな」
「恵みの雨ですよ、感謝祭の前日にそんなこというものではありません」
 大きな窓から日が差し込む。長テーブルにかかる影も刻々と角度を変え、心のどこかにあせりを与える。ほぼ完璧なはずだった。このまま明日がきても、とりあえずはすべて執り行えるほど。

 不安のものだねはそのまま部屋に不満となってあふれてくる。
「いいかげんに納得してはどうですか?」
「いや、しかしこれほどまでに今までの伝統を無視するというのは納得いかん」
 まだ若い大臣たちに四方を囲まれて、老臣はその顔に刻むしわを深くする。いいかげん いらいらとしてきた場の空気を和めようと、優しい言葉で繋ぐ老婦人。中立はどこか反対 への憧れと期待を込めて、余計話をややこしくするばかり。
「なんて頭の固い・・」
 つい口からついてでた皮肉をまわりから睨まれて、首をすくめてみるもののふくれっつ らは襟に隠せない。あきれたようにそんな光景を眺めて、指先を弄んでいるものもいる。

「そもそもこんなことをやろうってこと自体がばかげておったのじゃ」
 集約されるのは窓のすぐ後ろに座る、逆光の席。一瞬その場がしん、となる。
「・・・王女様はちゃんと長い時間をかけて話合っているではないですか」
「直前になってぶり返すあんたたちが悪いんだろう」
 下手の方に座っている二人がかわるがわるに言った。すぐ横でまた口論が始まる。ふぅ、 とため息をついた王女の傍らに座っていた初老の男性が、めがねをなおしてささやく。
「気になさらず進めればよろしい」
 そういって冷めたお茶を口に含む。
「・・進むも何もここが終点のはずなのですが」
 天日にさらされて少し変色した長テーブルを、誰かが小刻みにたたいている。王女は正面を向いたまま軽く頷いた。葡萄の弦をあしらった装飾の椅子の背もたれから、光がこぼ れてくる。首にかけてあった十字架に時々反射して、ちかちかと光った。
「そろそろ皆さんにも最後の仕上げにかかっていただきたいのですが」
 まとまりのない口論の中にりんと声を響かせて、王女が手元の紙をならす。
「感謝の気持ちを表すのに、形式も何も必要ありません。さまざまな場所でさまざまな祭 りが執り行われているのですよ」
 椅子を引いて立ち上がると、全員が王女の方を向く。影の中に浮かび上がるのは、水色 の瞳。
「もしこの後 神の裁きにでもあったのなら、私にお言いなさい」
 ごそごそと衣ずれの音がする。茶の葉でも詰まっていそうな咳がゆい沈黙の後、王女は 淡々と話し合いを続行する。夕日もまた、思い出したように赤く染まっていく。

「・・これまでです。それでは皆さん、明日は頑張ってください。」
 最後微笑んで、何人かがそれに答えて、日がすっかり傾き、残れ日が差し込む部屋から、 王女は一人出てきた。中ではまだ個人的に続く会話で、ざわざわと落ち着きがない。分厚 い扉を片手で閉めると、王女は少し肌寒い廊下に出た。赤い絨毯に、全ての音が吸い込まれている。時折遠くに聞こえるのは、侍女たちが慌て閉めだす窓の音。もう日が沈む。雨 に手間取られた野外の舞台、大工や彫り師たちは無理をしすぎていないかしら。透明な窓から見透かしてみるけれども、そこからは何も見えない。ずらりと規則的に並んでいる光。 向こうの角に置かれた大きな壷の口から、まるでろうそくを消すかのようにこまやかな埃が静かに噴出されている。何となくその口をのぞいてみたくなって、足音を忍ばせて歩き 始める。端の方を通れば、気持ちやわらかな絨毯があるけれども、シンプルとは言えど長いドレスのすそを、そうそう汚すわけにもいかない。


「王女様!」
 ぼんやりとそんなことを考えていたオデット姫の耳に、少女の声が明るく響く。振り向くと、そこに見慣れた四人、それぞれが白っぽい衣装に身を包み、スカートをなびかせ笑 っている。先ほどの間の向かいに続く廊下から出てきたようだ。
「お疲れさまです姫さまっ」
「早速ですけど最後の踊りの練習ですよ?」
 そっくりな顔をした背の小さな双子が、コインを裏表に投げているように、かわるがわ る言った。
「お疲れなら少し休まれてからでも・・」
 緩やかにウェーブのかかった黒髪の少女は、先ほどオデット姫の名を呼んだ少女である。 少し心配そうに、首を傾けた。そんな様子さえ目に優しいようで、王女はもう一度笑みを 作る。扉が一瞬開きかけて、再び閉じられた。もうそろそろ他の大臣も出てくるであろう。
「大丈夫、今行くわね」 王女はうなずいて見せると、そのまま急ぎ廊下を歩き出した。穏やかな緑の壁縁取りの 向こう、少女たちも顔を見合わせて、王女とは反対の方向に歩き出す。

 

 

その昔、悪い魔法使いに白鳥の姿に変えられてしまった
かわいそうな王女たちは
湖のほとりで 夜だけ人間の姿に戻り
いつか来る王子様を踊り待っていました。
素足で踊る操り人形。
その月光下の美しさに王子は恋をした。
そして神のちからで、悪い魔法使いをたおし
ふたり、シアワセになりました。
もう飛ぶこともなく 未来に悲しむことも夢をたくすこともなく
シアワセになりました

 

 

 螺旋階段に続く広いダンスホールの中心は、天井からろうそくの炎が揺らめき明るい。器楽団がそばで軽やかな音色を立てる。練習といえどもやはり真剣な顔つきで、その楽器 から春の音をつむいでいく。春にふさわしい、期待をはらませた楽しげな曲。リズミカルなテンポにあわせて、骨ばった手からぱんぱんと拍子がとられた。頬さえ春色に染めて、 クリームの帯がくるくるとまわせば、明日にはそれに鮮やかな花が添えられる。きっと美しいに違いない。
 そこから少し離れた窓のそばは、しんとしていて先ほどの廊下よりも肌寒かった。琥珀 色の柱は、ろうそくと窓にはさまれて複雑な影を落としている。皮の紐で結わえた首もと の十字架を指先で弄びながら、王女は黒髪の少女に笑いかける。
「そう、あのときの。あのとき見たお祭りの、真似をしてみたの」
 大臣たちとの話し合いの場では、誰とも分かち合えなかったいつかの思い出。それは空 を飛んで見つけた物語。限りある夜までの自由時間。小声でもいい。せめて一人でも、分 かってくれる人がいたのなら。
「楽しそうだったでしょ。みんなが舞台で踊って楽しんで、夜露のころからまさかたいま つの明かりで踊りつづけるなんて。空もなんて明るかったことか」
 声高らかに笑い声をたてる王女を見て、黒髪の少女は思わずくすりと笑う。
「この国の今までのお祭って、本当に静かで・・なんていうか・・すごく厳粛で神聖で・・ でも子供なんか退屈で泣き出しちゃいそうだったから。結局まだ渋い顔の人もいるんだけれど・・きっと終われば納得してくれると思うわ」
 明日さえ過ぎれば。王女として、初めてまかされたまつりごと。一人では決して作り上げることのできないそれは、目に見える理想にどんどんと近づいていた。綿密な計画、分担される作業。狂いのない言葉に、計算され尽くした美しさ。気まぐれな十字架は王女の 指をくぐりぬけ、皮ひもを命綱に再び絹の谷へ落ちる。横で再びくすり、と笑い声がする。
「オデット姫様ったら。なんだかすごく楽しそう。」
 嬉しそうな顔をして、少女がくるりとした瞳で王女を見た。組みあがっていく舞台しか 見えない少女には、王女が頼もしかった。王女が作り上げていく感謝祭。水色の瞳が一瞬 だけ動きをとめた。しかし少女はそんな様子に気付くようでもなく、腰を曲げて解けかか った靴紐を結びなおす。
「確かに今よりたくさんの物は見れましたものね。それに雲を引き裂いて空を飛ぶのは気 持ちよかった」
 胸元の十字架を眺めていた王女は、口を微笑みの形にして、そのまま視線を右にそらす。
「そうね、広い広い空を飛んで・・」
「でも」 少女は王女を見上げて、笑った。
「でも今だって楽しいではないですか。姫様もよくお笑いになるし。お城の方はみんな優 しいし。お父上やお母上様も、遠く離れてはおりますが、私たちのこといつも気にかけてくださっています。おかげで両国はとても仲がよろしいです。それに何と言ってもオデット姫様。あんな素敵な王子様と一緒になれるなんて。あのころには考えられませんよね」
 少女の頬は夕日の差し込んだ水面のように波打った。王女も合わせていたずらに笑う。

あのころは、もう口にしてはいけない日々の代名詞。

「そうね、でも最近ちょっと冷たいわ。明日にならないと戻らないだなんて」
 幾度か繰り返される音楽。
「オデット姫さまったら。でも本当。よかったですね。人間でいると、こんなにも毎日楽 しく過ごせます」
 アロマは口に手をやると無邪気に王女を大きな瞳で見る。一時やんでいた音楽が、また 同じ部分から始まる。手拍子が妙に大きく聞こえて、耳障り。オデットは目を細めた。そ れは高望みってこと?金髪に映える銀色の冠。それは踊る王女をひときわ美しく見せる。 他の少女たちとは違う、美しさ。

「アロマ、それに王女様」
 それ以上の会話を、城一番の踊り手だという女がさえぎった。ぎすぎすの細い身体で振 りかえる。ベージュの長いスカートを軽くはたいて、こつこつとつま先を鳴らした。
「はーい、今行きます」  
 月明かりの柱の影から、肩をすくめてアロマが駆け出した。磨き上げられたダンスフロアに足音がひびく。

「王女様」


 城の踊り子は再び王女だけを呼んだ。柱にもたれかかっていた王女は身をおこすと、背 筋を伸ばして静かに歩き始める。小さな歩幅で、ゆっくりと。他の少女たちはふりかえっ て、はやくはやく、と手招きした。一足先に合流したアロマも振りかえって微笑む。地上 に咲き乱れる、どんな花よりも美しく。いつかそんな花をも目下に、大空を飛んだ日々の ことを忘れて?

 

 夜がふけていくのは早い。今でも。

「それでは王女、皆さん、明日がいよいよ本番です。舞台の方もとても綺麗に仕上がった そうです。がんばりましょうね」
 城中から聞こえる結びの言葉。それぞれの声が重なり、一糸の乱れもない髪の踊り子は さっさとホールを出た。少女たちもおしゃべりをしながら続く。明日の舞台が、楽しみな のだろうか。歩きながらも順序通りのステップを確認するように踏んでいく。こちらが下 がれば相手が上がってきて、狭い扉では上手く進まない。夜半、大きく不完全な月が、も う天高く地を照らしているころだった。

 ろうそくの残り火。暗いホールに一人残った王女の長く伸びた影が、ひたりひたりと静 寂の湖に音だけの波紋を残す。ホールの外、どこかの森に続く庭。王女は螺旋階段の向か いにある、ダンスホールの扉を片方だけ開けた。大きく開かれる扉は一人にはさすがに重 たい。ろうそくが急に流れ込んできた風にくすぶる。大理石の外へまたぎ、石造りの階段に足を踏みいれ、遠い空を、ノゾム。 明日は満月。濃淡の幅の広い夜空の中に、昨日までの雨雲の忘れ形見がちぎれている。 浅い階段を2、3段降りると、夜の世界が開けた。正面には馬車2台分ほどの道がつづき、 両側に広がる森から気泡がはじけるように葉ずれの音が聞こえる。空気はしっとりと湿っ ぽい。澄んだ夜。誰もいない、静かな夜。ダンスホールに比べれば、やはり暗い。空を見 上げて星を見つける前に、どこからか不自然な声がした。

「今夜は満月?」
 はっ、と気づいた王女の目が行く先に、不安げに鳴る木々の闇。左手、奥に奥に続く、 暗い森への入り口。まばらな幹の間に、月明かりがこぼれる。
「おかしいな。満月の夜には感謝祭があったと思ったけど・・」
 闇の中にまぎれたその瞳が、オデット姫の首、十字架を見据えた。淡い黒の瞳には、た だの首飾りにしか映らない。けれどもこれは勝利の証。王女の細い首から無責任にぶら下 がっている。
「でも会えたね。ごきげんようお姫様」
 長い長い漆黒の髪。まわりからにじみ出るように浮き上がってくる輪郭と、くすんだ石 の飾り。怪しく美しい女は王女に笑いかけた。王女は目をそらす。ざわざわとなる木立。 春の夜風はまだ冷たい。ダンスホールに続く庭は広く、階段を降りて数メートルも行けば、 小さな噴水がしぶきを上げている。さらに遠くには明日、感謝祭の舞台となる、飾り付けられた平野が見える。

「魔法使いの娘オディール。」

 オデット姫は枝の上に腰掛ける魔女につぶやくように言った。
「祭りは明日よ。」
 装飾の施された柱の横。 綺麗に刈り取られた道の向こう。辺りには誰もいないはずなのに。
「だから明日が満月」
「あ、っそ。」
 オディールは興味なさげに葉を撒き散らしながら地面に降り立った。黒い葉陰が彼女の まわりにのっぺりとまとわりつき、そして風に運ばれていく。それほど高い木ではない。 手を伸ばせば、1番低い枝に触れられる。

「今日は何の用?」
 王女と魔女の間で湿った風が揺れる。魔女は驚いたように口を尖らせる。
「そっけないなぁお姫様。大変なんだよ?毎回毎回城壁の上の兵隊さんたちに気づかれな いように、お城にはいってくるのも?」
 なーんてね、などと微笑みながら、オディールはまだ若い葉を爪で引きちぎり、くるく ると回してみせた。不意に現れてはすぐに消える。次にいつ現れるかはわからない。
「冷たくしないでよ、前にも言ったでしょうお姫様」
 王女は魔女から目をそらして、月光の先に流れ落ちる清らかな噴水のしぶきを眺めた。 その音は無心に耳を澄まさないと聞こえない。
「私にはあなたを白鳥に戻してやれる力はない」
 水にさらされるレンガはまだ冷たそうだった。風が湿っぽいのは噴水のせいかしら。

「ごめんなさいね」 「べつに」
 オデット姫は強く言い放った。
「別に貴方に謝っていただくことなど何もない。」
 風が、風が遠く湖まで続く森をゆすぶっていく。

「・・・やっと、やっと戻れたのよ、人間に。いまさら・・。もう、白鳥なんて」
「それならよかった」
 まっすぐな黒髪の間に見え隠れした葉が、いつのまにか白い羽根に変わって、魔女の手 の中でまだくるくると回りつづけている。冷たくあたりたくもなる。いや、冷たくするの が普通。仲良くなどできるわけがない。それはそんなに昔々の話じゃない。まだ片手に数 えられるほどの月日の向こう。私の不幸せの元凶。何度繰り返しても、わかってくれない。

 木の幹に手を回して、魔女がもたれかかる。
「そうだ、お姫様。さっき飛んでくるときに見たよ」
 何を?飛べばどんなものでも見られるでしょうに。王女がかわりに1段下がった。地面 まで、後2段。魔女は白い羽をなぜか不思議そうに眺め回す。
「ずいぶん立派な舞台を作ったねお姫様」
 魔女は首を道化のように傾けて笑う。人形のような瞳に暗い木漏れ日が落ちる。
「そりゃそうだね。散々薄暗い湖畔で踊っていたんだもの。どんな宝石がちりばめられた 舞台だって足りないくらい」
「べつに・・・」
 王女はつっけんどんに答える。しかし魔女は気にもとめないで、うつむいたオデットを 見つめる。ぴしゃん、と規則正しい噴水の音が乱れた。

「舞台の上に掘り込まれていた教会」
 オディールの瞳は怖い。人形のような無機質な目で。それは安いガラス玉のようで。
「あれって北の果てにある教会」
魔女はどこをともなく指を指す。広場の真中、高い舞台。そこの頭に大きく掘り込まれ た建物。それは寒くて、ここからは遠い国。その遠い街の外れにある教会。きっとまだ、 あそこは雪と氷にうずもれて、時折の朝日にきらきらしていることだろう。
「お姫様が彫らせたんでしょ」

 一区切り一区切り、魔女はゆっくりと王女に話し掛ける。オデットは顔を上げた。そう して少し微笑んだ。
「そう」
「何で?」
「・・・見てみたかったから」
 その教会は、小さい。冷たい大地に根をおろす、ヒイラギのような教会。水色とも青と も雪とも見分けのつかないような淡い色合いに、今にも倒れそうな細く高い塔。この国の 人も、オデットの生まれた国の人も、ただ耳伝いに聞いているだけの話。その美しい施し を受けた教会に、朝日が差し込むところを見た人は、幸せになれるという。他愛もない噂 話。

 魔女はその話を知っているに違いない。そして、その目で見たに違いない。その噂が真 実であるのかすら。魔女は何でも知っている。

「あんなものを見て今更何がしたいの?」
 魔女の言葉は冷たい。
「お姫様にはもう望むものなんて何もないんじゃない?」
 魔法から解き放たれた今、私が求める幸せはこれ以上ない。

「・・ただ、見てみたいだけ」
「好奇心?」
「そう、一度くらいはね」
 城の者は誰一人としてみたことのない、それさえ見れば、幸せになれるなんて噂される、 そんな美しい代物。名残惜しい。それほどまでに貴重なものなら、もうすこしちゃんと見ていればよかった。もうすこし、遠くにいってみれば。空さえ飛んでいれば、遠目に見え ていたのに。朝日にすぐ飛び上がって、遠く北の方に飛んでいけば、あのひんやりとした 分厚い雲の先にあったはずなのに。噂を聞いたのはこの城に来てから。そんな小さな話が、 耳に聞こえるようになってから。

 そう。今更、後悔。

「その手に翼があれば」
 魔女はにやりと笑って長い爪を王女に向ける。ふわりと王女の腰紐が円を描く。
「自分で飛んでいけるのに。どこまでも」  何の音も立てずに、いくつもの葉が落ちていく。春の葉っぱはみずみずしい。
「わざわざ老いぼれた彫り師に頼み込むことはない。しかもあんな小さい木彫りの不完全 な教会なんて、お姫様」
 彫り師の中に、その姿を見たものはもうすっかり手に自信を無くした彼だけだった。魔 女は何でも知っている。
「ま。頭上に幸せの教会があるなんて、さすがお姫様ってところかな。せいぜい明日は召 使さんたちと踊ってよ。綺麗にね。王子様も見ているんだから」
 くすくすと笑うと、長い爪に作り上げた白い羽をはさんで、ヒラヒラとふってみせた。
「・・じゃぁあたしは帰るね、お姫様。姫様もお連れが心配するだろうし」
「待って」

 とっさに呼び止められたオディールは、木の枝に手をかけたまま静止した。魔女でも白 い羽を作り出すことはできるのね。 魔女がふりかえる。
「・・・あ」
 呼び止めたっておかしくない。客人の心配をするのは、王女として当然のこと。予定の 定かでない客人は特に。ウェーブのかかった金髪が頬にかかる。
「・・明日の・・明日の感謝祭には・・来てくださるのかしら」
 ふっ、と魔法使いの娘は笑って肩に滑る黒い髪を払いのけた。
「気が向いたらね」
 そして指先に遊ばせていた羽根をついと指ではじいた。銀色の月明かりが差し込んで、 魔女の瞳を怪しく光らせる。羽根は地面につくのを拒むように、魔女と王女の間をいった りきたり。

 ざあっ。最後の一吹きが姫の金髪を絡みあげ、白い忘れ物を旋回させた。

 

「オデット姫様!」
 城からダンスホールに続くドアから光が漏れたかと思うと、黒髪の少女が先ほどとは打 って変わるおとなしい格好をして、向こう階段に立ち尽くす王女のもとに駆け寄った。ア ロマが開けた城への扉と、オデットが開けた庭への扉。ダンスホールは強い風の通り道と なる。月明かりと、アロマのかばう灯りだけが頼り。螺旋階段を駆け上がる。
「よかった、こちらにいらっしゃったんですね。なかなかお戻りにならないので・・」
 彼女の王女は身をかがめていた。しかしすぐに起き上がると、振り返っていつものよう に笑った。
「そうね、帰るとしましょうか。明日があるものね」
 不完全な月を横切って、黒い白鳥が飛んでいく。城の窓はこんなにも大きいのに、城の 中にはこんなにもたくさんの人がともに明日を待っているのに。その姿を見たものはどこ にいたのだろうか。扉を背中でしめて、何かを服の間に滑り込ませる。

 アロマと王女は、もうしんとした城の中を、歩いていく。いくつか階段を上り、部屋を 越え、ようやくたどり着く、王女の部屋。心持急いでいるように見えるのは、アロマの心遣い。部屋に入ると、いつもの女中たちが、ほっとしたように王女を迎えた。そうして優 しく服の着替えを手伝い、ねぎらいの言葉をかける。アロマの手中の炎に加わる、いくつ もの光。王女は簡単に用を済ませて、彼女たちを帰らせた。アロマだけが最後、王女の足 元を照らす。

「おやすみアロマ」

「おやすみなさい王女様。また明日」

 アロマは王女を寝室まで連れて行くと、深々と腰を折った。そうしてゆっくりと寝室の 扉を閉める。王女は再び大きな部屋に取り残された。長い付き合いの少女の足音が遠ざか って、目が暗闇に慣れるまでじっとしている。大きな窓、夜に開けるのは禁じられている。 小さな高窓も、開かない。閉めきられた部屋の匂いは、廊下よりは温かい。

 

 もう寝なくてはいけない。朝日のためじゃない、明日のために。水を張った洗面桶の月 の虚像に、白い羽根をすべりこませてみる。軽い羽根は水面に浮き、そこでまたくるくる と踊り始めた。金色の月明かりに白銀の羽。王女は銀色に光る冠をはずし、その鮮やかな 金髪を下ろす。冠は王女の証。誰も疑えない。たとえあのころをさげすんだところで。

 

もう二度と使うことのない羽根。
二度と飛ぶことのない空。
王子は明日、感謝祭のために帰ってくる。
もう待ちこがれる必要などない。

 

 王女は踊りまわる羽根の上に、首にかけてあった十字架を沈めた。羽根は十字架にさされ て、空気の真珠をまといながら水の中に沈んでいく。

私はもう白鳥じゃない。

 王女は清い水を手にすくい、その手を顔に押し当てた。けど。水の滴る音が遠くふくろ うの鳴き声と重なる。忘れていただけ。きっと忘れていただけで、今に、明日になればき っと普通になる。いつか慣れない翼を風にはらませて遊んだときのように。

人間でいることってこんなにも窮屈なことだったかしら?

 満月になりきれない月を睨みあげながら、頬をつたい水がこぼれる。銀の十字架は沈ん でしまったけれど、その隙間からすべりでた羽根がまた、水面に浮かび上がってきた。
 明日は満月。
近くにかけてあったローブを、王女はその華奢な肩に羽織った。それは白くて柔らかい。
明日、王子は帰ってくるから。

 


そうして森の湖畔のように暗い部屋の中で、一人、軽やかに飛んでみる。

 Fin

バレエ「白鳥の湖」より

 

 

 

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